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お世話になりっぱなし、のceroです。
『地獄の黙示録』(邦題気に食わない)見てきました。
わたくし、いまからさかのぼること3年ほど前、コッポラの作品*はわりとみた。『ドラキュラ』とか『神父』とか。
んですが、『地獄の黙示録』はほとんど記憶からすっとんでおりました。
なので非常に年の差を感じれた映画体験でした。個人的には。
ただしかし、とりあえず、(終わりが)わけわかんなかったという人がいたのでそのへんすこし解説を試みてみましょう。
なんて親切なわたくし・・・お世話になってるし・・
もし、ひとことでいえばこの映画で問題になっているのは戦争や平和というよりも
「終わり[=終末]」や「繰り返し[=永遠」でしょう。
とりあえずここでは後者を中心にそれを説明してみよう。
カーツという謎の男を殺せ、という指令を受けた主人公は地獄の「終わり」を待ち望みながら川を上る。
地獄の終わり?――もちろん。だっていままでの生活が地獄だったんだから。
冒頭、ここにいると体がなまる、やりきれない、と主人公はつぶやいていたはずだ。
帰るべき故郷がないのになんで指令にこだわるの?――
むしろ逆に、帰るべき故郷がないからこそ、こだわると見たほうが自然だろう。
地獄から目をそらすには指令を受けるしか手はないし、地獄から逃れられないのなら、それだけで十分なはずだ。
おそらく主人公は、地獄の終わりの可能性を勇敢で知的でわけのわからない人々を
あやつる(と言われる)カーツの探索に見たんだろう
けれど残念ながら終わりだと思っていた場所で目にしたものはまったく違うものだった。
たとえば暗闇の中で(冒頭の主人公のつぶやきに応えるように)あらわれたカーツはいう。
「この連中と一緒だと自分を忘れられる」
あるいはおだやかにしきりにこう訴える
「真の自由とはなにか?」
「他人からも、自分からも自由な真の自由とは?」
これが主人公の地獄の終わりだろうか。
むしろ主人公の考えていたことばかりではないのか。思い出そう。
冒頭主人公はつぶやきとともに
「彼の物語は俺の物語だ」といっていたはずだ。
つまり、主人公はカーツの物語を「みじめに」繰り返したのだ。
その証左はいたるところに見ることができる。たとえば象徴をとおして。
主人公はやっと見つけたカーツを爆撃で葬るのには(なぜだか)失敗する。
だから当然自ら殺すしかない。
けれど自ら手を汚す途中におどろおどろしいシーン=出来事がかぶさる。
野外で犠牲の牛が屠られるのだ。
犠牲は主人公のたどる永遠をあらわしているとみるほかない(だって他にあんなシーンを見せる理由なんてないんだから)。
もっと解説すれば、あのような儀式的な殺害――犠牲――は
殺すほうの(永遠の)繁栄や、(永遠の)生命への願い(や誓い)のために
行われる場合がしばしば、だから。
もちろんこのような(イミを持つ)風習が、カボジアあたりで実際に行われている必要は全くない。
だって映画なんだから(^_^)
あるいは冒頭、主人公が独白する時のプロペラでもいい(これだって他にあんなものを見せる理由は思い当らない)。
つまり、プロペラ→円運動→永遠。
ちなみにその後見つかるカーツのノートには主人公と同じ言葉「爆撃せよ」が書きつけられている。
おそらくカーツも以前ずっと昔、地獄の終わりを待ち望み、その言葉を書いたのだろう
(そう考える以外、あの赤い文字をどう説明すればいいのか)。
それら――カーツの物語を繰り返す主人公――をうらづけるように集落の住民は主人公に
ひれ伏すようになり、映画はその後主人公がどこへいったのかわからないような仕方で終わる(まるでカーツの失踪のように)。
だからもしかしたら主人公は、その後こう叫びながら死ぬのかもしれない
「ここは地獄だ」
――これだけ、もしこの映画がこれだけならば、これほどやりきれない映画はない、と自分でも少し思うのだが、
(そんなはずはないので)まあ、その辺りは余裕があればまた今度。
もちろんこれは斎藤の一つの解釈であって、間違い(こう解釈するのはおかしい)、かもしれませんが。
発言は
地獄=人生
天国=死
という解釈を前提にしていますです。
ちなみに「黙示録」というのは、
そのようなものとして[地獄=人生からの救済として]の “死を待ち望む考え”――言いかえれば終末思想――のことを
指す場合が多いです。
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