地獄の黙示録
監督 フランシス・フォード・コッポラ  CAST マーロン・ブランド マーティン・シーン ハリソン・フォード
米軍のウィラード大尉に下された極秘任務。それは密林で王国を築いたカーツ大佐の暗殺。輝かしい経歴を誇るカーツが何故反逆行為を犯したのか疑問を抱きつつ、ウィラードは川をさかのぼり戦場の狂気を目の当たりにしていく。

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  「みじめな笑劇」――『地獄の黙示録』感想                              cero  2/13

お世話になりっぱなし、のceroです。

『地獄の黙示録』(邦題気に食わない)見てきました。

わたくし、いまからさかのぼること3年ほど前、コッポラの作品*はわりとみた。『ドラキュラ』とか『神父』とか。
んですが、『地獄の黙示録』はほとんど記憶からすっとんでおりました。

なので非常に年の差を感じれた映画体験でした。個人的には。

ただしかし、とりあえず、(終わりが)わけわかんなかったという人がいたのでそのへんすこし解説を試みてみましょう。
なんて親切なわたくし・・・お世話になってるし・・

もし、ひとことでいえばこの映画で問題になっているのは戦争や平和というよりも
「終わり[=終末]」や「繰り返し[=永遠」でしょう。

とりあえずここでは後者を中心にそれを説明してみよう。

カーツという謎の男を殺せ、という指令を受けた主人公は地獄の「終わり」を待ち望みながら川を上る。

地獄の終わり?――もちろん。だっていままでの生活が地獄だったんだから。
冒頭、ここにいると体がなまる、やりきれない、と主人公はつぶやいていたはずだ。

帰るべき故郷がないのになんで指令にこだわるの?――
むしろ逆に、帰るべき故郷がないからこそ、こだわると見たほうが自然だろう。
地獄から目をそらすには指令を受けるしか手はないし、地獄から逃れられないのなら、それだけで十分なはずだ。
おそらく主人公は、地獄の終わりの可能性を勇敢で知的でわけのわからない人々を
あやつる(と言われる)カーツの探索に見たんだろう

けれど残念ながら終わりだと思っていた場所で目にしたものはまったく違うものだった。

たとえば暗闇の中で(冒頭の主人公のつぶやきに応えるように)あらわれたカーツはいう。

 「この連中と一緒だと自分を忘れられる」

あるいはおだやかにしきりにこう訴える

「真の自由とはなにか?」
「他人からも、自分からも自由な真の自由とは?」

これが主人公の地獄の終わりだろうか。
むしろ主人公の考えていたことばかりではないのか。思い出そう。
冒頭主人公はつぶやきとともに

 「彼の物語は俺の物語だ」といっていたはずだ。

つまり、主人公はカーツの物語を「みじめに」繰り返したのだ。

その証左はいたるところに見ることができる。たとえば象徴をとおして。

主人公はやっと見つけたカーツを爆撃で葬るのには(なぜだか)失敗する。
だから当然自ら殺すしかない。
けれど自ら手を汚す途中におどろおどろしいシーン=出来事がかぶさる。
野外で犠牲の牛が屠られるのだ。
犠牲は主人公のたどる永遠をあらわしているとみるほかない(だって他にあんなシーンを見せる理由なんてないんだから)。
もっと解説すれば、あのような儀式的な殺害――犠牲――は
殺すほうの(永遠の)繁栄や、(永遠の)生命への願い(や誓い)のために
行われる場合がしばしば、だから。
もちろんこのような(イミを持つ)風習が、カボジアあたりで実際に行われている必要は全くない。
だって映画なんだから(^_^)

あるいは冒頭、主人公が独白する時のプロペラでもいい(これだって他にあんなものを見せる理由は思い当らない)。
つまり、プロペラ→円運動→永遠。

ちなみにその後見つかるカーツのノートには主人公と同じ言葉「爆撃せよ」が書きつけられている。
おそらくカーツも以前ずっと昔、地獄の終わりを待ち望み、その言葉を書いたのだろう
(そう考える以外、あの赤い文字をどう説明すればいいのか)。

それら――カーツの物語を繰り返す主人公――をうらづけるように集落の住民は主人公に
ひれ伏すようになり、映画はその後主人公がどこへいったのかわからないような仕方で終わる(まるでカーツの失踪のように)。
だからもしかしたら主人公は、その後こう叫びながら死ぬのかもしれない

「ここは地獄だ」
――これだけ、もしこの映画がこれだけならば、これほどやりきれない映画はない、と自分でも少し思うのだが、
(そんなはずはないので)まあ、その辺りは余裕があればまた今度。
 
もちろんこれは斎藤の一つの解釈であって、間違い(こう解釈するのはおかしい)、かもしれませんが。

発言は
地獄=人生
天国=死

という解釈を前提にしていますです。

ちなみに「黙示録」というのは、
そのようなものとして[地獄=人生からの救済として]の “死を待ち望む考え”――言いかえれば終末思想――のことを
指す場合が多いです。
 


「地獄の黙示録」の感想です。                                      某鹿山 2/13

それにしても、亀山さん「ドアーズ」好きですよねぇ、やっぱジム・モリソンはかっこいいと思いますよ。

「地獄の黙示録」、テレビでやっていても絶対見ないような映画なので、僕の中でゾクゾクするものはありました。
映画全体の感想は特にないです。

思ったこと、言葉にすると「日常」と「非日常」かな。例えばシェフ、
「俺はシェフになりたかったんだ!なのになんでジャングルでトラに襲われてるんだ!」
確かこんなことを言ってたと思う。
そらそうだ、おいしい料理を作っていた自分、それが一転、軍人となりジャングルでトラに襲われる。
このギャップはそうとうなもんだろう。
あとは中盤に出てきた「プレイボーイ」。
プレイメイトについて色々話してる彼ら、それは自分たちの日常にもありふれてることだと思う。
でもその後彼らは、戦争をしながら川を上っていく。
人を殺したり、殺されたり、瞳に映るは死体の山。ここでもすごい“ギャップ”というものを感じた。

日常の僕らとなんら変わらない彼らが見えれば、日常の僕らでは絶対にありえない、非日常の彼らが見える。
不思議な気分だった。

あと、なんのためらいもなく機関銃をぶっ放す彼らがいて、仲間の死に本気で涙する彼らがいる。
不思議な気分だった。

その背景にあるものがまったく理解できないわけじゃない、だけどずっと不思議な気分だった。

う〜ん、主人公が殺さなきゃいけないのが、サーフィン好きのおっさんじゃないと気付くのにかなり時間がかかった。
あのおっさんは絶対キーパーソンだと思ってたのに…
今思えばあのおっさんはなんだったんだ!
あのサーフボードは何処へいったんだ!
実は奴はホモなんじゃないのか!?

あぁ煮えきらない。



「地獄の黙示録」感想文                                          しゅんた 2/14

しゅんたです。地獄の黙示録見ました。
ぼくには正直言って難解でした。集落に着くまでが長すぎる気がしました。
僕には「集落に着くまでの旅」の物語と思いました。多分、集落に着いてからのストーリーが一切わからなかった僕には
そういうふうに思うしかないのだと思います。

正直言ってぼくの情報処理能力を超える映画でしたね。字幕が目で追いつかなかったり、
目で追い切れても台詞の解読に時間がかかったり、解読中に次から次へと新しい情報が入ってきて、
もう混乱していて何がなんだかわからない状態でした、ほとんど。脳味噌フル回転で見ていました。

そんな状態で感じたことを書きます。
最初に出てきたサーフィン好きのおっさん、見ただけでこいつターゲットじゃないなとわかりました。
見るからにうさんくさい。言ってることも行動もうさんくさい。
こんな奴に誰が従うかと思いました。それにターゲットはひとりでいるはずなのにたくさん軍人いたし、
「空の第一騎兵隊」(だっけか?)を率いていたしね。

「ここでは戦うか、サーフィンするかどっちかだ!」

このおっさんのことばうけました。戦争と趣味を同列にしてるなんてと。なんて人だと。
第三者から見れば、そうだけど。やってる当事者にとっては案外そんなもんで、
ある程度リアルに描かれていたのではないかと。

そんで、主人公一行について。見ていて、この五人お互いにお互いのことどう思ってんだ?
こいつらみんな好き放題してて、友情でも何でも言いから何らかの感情によって、結ばれてるのか?
そういう疑問が浮かんできました。でも、皮肉なことに人が死ぬ度にまとまっていき、
大切な仲間だと思っているのだなぁと感じました。
一番目に死んだ人の供養の場面でぼろぼろの星条旗が出てきたときはテロ現場で発見されて、
現在行われているソルトレークオリンピックの開会式で掲揚された星条旗が頭に浮かんでしまいました。
全く関係ないのになぁー。

もう限界です。感想はこれで勘弁して下さい。またなんかあったら書きますので。

で、斉藤くんの[0916][0917]を読んで思ったこと。
主人公のターゲットのカーツの前にもカーツと同じ様な存在がいて、カーツも誰かの
物語をたどっているに過ぎないのではないかと。斉藤くんの理論から行くとそう思いました。
『誰か→カーツ→主人公→?』
僕は「?」はいないのではないかと思う。主人公はカーツのたどった物語をたどり、
それは地獄から解放されるものではないと悟った。こんなこと自分で終わりにしよう
と思ったのではないか。そうおもう。
主人公がその後死んでようと任務を終えたことを報告し、別の場所で生きてようと、
あの集落からは去ったのでまた同じ物語をたどる人はいない。
もしかすると、主人公はあの集落で自分は生まれ変わった。あの集落が自分の故郷だとももしかすると思っているかもしれない。そう僕が思う根拠は正直言ってない。た
だなんとなくそんな気がする。故郷を見つけたと思っているとしたら、ある意味、地獄から解放されたのかもしれない。

で、最後に思い出した。
水面から頭が出てきたときうれしかった。見ながらずっといつあの場面が出てくるのかと思いながら見ていました。
ただ、HPでみたので実際どう使われているのだろうと、興味がありました。
正直言って、迫力不足ですね。もっと過激にしないと。とにかく僕はあの場面に関しては不満たらたらです。

戦闘シーンは迫力ありました。フランス人のシーンは言ってることが理屈っぽいので字幕を工夫して欲しかったですね。
あと、ベトコンとベトミンが出てきてどう違うのだろうと思っていました。
やっぱり、そのころの事を知ってるとそこらへんもわかったのでしょう。

では、またあったら書きます。では。

参考
・「ベトミン」ベトナム独立同盟。1941年5月インドシナ共産党を中心に創立した民族統一戦線。
 対仏闘争、対日闘争を展開、独立の主体となる。のちにベトナム民主共和国建国。
・「ベトコン」1960年12月ベトナム共和国のジェム政権と米国に対して戦ってた人々が結成した民族統一戦線「南ベトナム民族 解放戦線」の米国側の蔑称。
・ベトナム民主共和国は中国、ソ連が支援、ベトナム共和国は米国が支援。



黙示録]故郷とか(Re: 「地獄の黙示録」感想文)                             cero 2/14

しゅんたくん:
> 『誰か→カーツ→主人公→?』
> 僕は「?」はいないのではないかと思う。主人公はカーツのたどった物語をたどり、
> それは地獄から解放されるものではないと悟った。こんなこと自分で終わりにしようと思ったのではないか。そうおもう。

それはおそらくそうでしょう。

ただ、前回、「永遠」といった言葉をつかったのは、ミスリーディングだった、かもしれません。
“反復”というほうが誤解が少ないはず。
カーツの前に『誰か』いたかどうか、といわれたらいないと思うのでね。

なぜなら、そうでないならば――滑稽な繰り返し(=反復)をしていることをわかっていなければ――、
「彼の物語は俺の物語だ」と回想できるわけがないから。

まあ、それはそれとして、

>
主人公がその後死んでようと任務を終えたことを報告し、別の場所で生きてようと、
> あの集落からは去ったのでまた同じ物語をたどる人はいない。
> もしかすると、主人公はあの集落で自分は生まれ変わった。あの集落が自分の故郷だ
> とももしかすると思っているかもしれない。そう僕が思う根拠は正直言ってない。
> ただなんとなくそんな気がする。故郷を見つけたと思っているとしたら、ある意味、
> 地獄から解放されたのかもしれない。

そのあたり――故郷うんぬんについてのことをいくらかでも理解するためのわかりやすい鍵は

> 戦闘シーンは迫力ありました。フランス人のシーンは言ってることが理屈っぽいので
> 字幕を工夫して欲しかったですね。

その、「フランス人のシーン」にあると思われます。あるいは、こういってもいいです――
主人公が最後になにを悟ったかをこの一日から理解することができるのではないか。

言葉にうめつくされた一日。
すこしそれを解説しましょう。

カーツに向かう途上でであうフランス人(兵士)たちの主人(名前なんだっけ?)は、主人公たちと食事をともにします。

そして主人は「家族」や「祖国」のために戦っているといい、「君らはなんのために戦っている?」
と(主人公たちに)問いかけ、「君らの戦いを戦うがいい」とさとす。

物語的にいえばここで主人公は、いたいとこつかれた、といったところでしょう。
最初から戦う理由なんてたいしてなかったんだし、それに納得できずにいたんだから。

夜、まくしたてられる主義主張につかれた後、主人公はフランス人の女と
静かに言葉をささやきあうようになります。ゆっくりと少しづつ、しかし執拗に。

最初、彼女は、昼間の会話をひきつぐように「戦争が終わったら故郷へ〔帰るの〕?」と(主人公に)問いかける。
ここでも彼はいたいとこつかれた、のかもしれません。
けれどその一言は、故郷を見つけられるといいわね、などという方向へ展開するのではなく、
これから後に交わされる言葉の花火の導入になります。
   「同じ川へは二度と入れないのよ」
   「あなたって人間は二人いる」
   「殺すあなたと愛するあなた」
   「わかる?」
などなどなど。

ここが――というかこここそが、カーツのつまらない繰り返しを解く(閃光のような)鍵なのだとわたしには思えます。

つまり・・・・・と思ったけれど、そろそろ眠い(し、しかもアイディアをまとめられない)のでつづきはまた今度。
だいたいこの会話で引用されていたニーチェ(=アリストテレス)の言葉の出典が思い出せない自分がかなしい。

ちなみに蛇足ですが(かなり有名ですが)、「同じ川」うんぬんはヘラクレイトス*のセリフね。
ここなど参照。
http://www.yamanashi-ken.ac.jp/~fujitani/herakrit.htm
ああ、なんて親切なわたくし・・・
つーか、こんなこと(知識のひけらかし)してるから講師さんたちにきみはぼくとおんなじさ、とかいわれちゃうのか。
知識労働者ってツライのね・・・



[黙示録]サーフィンUSA(Re: 「地獄の黙示録」の感想です。)                     cero 2/14

長文失礼。
> ここが――というかこここそが、
> カーツのつまらない繰り返しを解く
> (閃光のような)鍵なのだとわたしには思えます。
> つまり・・・

そういえばわたし、
こんなこと書いておきながら、
いまだその説明をしていませんでした。

まあ、それはあれ、あれですよ。

もうけっこういろんなとこがわかっちゃったからわざわざもう一度説明するのがめんどくさいというのと、
にもかかわらず、わだかまっている忘れている部分を思い出して、
思い込みが間違っていないかどうかを検証したい(けどできてない)から。

なのでとりあえず今は

某鹿山くん:
> う〜ん、主人公が殺さなきゃいけないのが、サーフィン好きのおっさんじゃないと気付くのに
> かなり時間がかかった。
> あのおっさんは絶対キーパーソンだと思ってたのに…
> 今思えばあのおっさんはなんだったんだ!
> あのサーフボードは何処へいったんだ!
> 実は奴はホモなんじゃないのか!?

これについてのみ解釈をだしとくだけで勘弁してください。いうまでもなく

> 今思えばあのおっさんはなんだったんだ!

あのおっさんは絶対キーパーソンです。そうでなければなんであんなヒトがでてくるのか。

そして
> あのサーフボードは何処へいったんだ!

あのサーフボードが“使われずに” “どこかへいってしまった”ことこそが鍵だと思う。
そうでなければなんであんなことが行われるのか。

彼(名前なんだっけ?)は、最初、サーフィンを目的にあの村を攻めにいったわけですよね
(主人公の目的に協力するためでなく)。
それなのに、サーフィンはランス*たちにやらせて自分はなにもしない。ヒジョーにオカシイ。

ところで、サーフィンは主人公たちの旅路と同じく“水の上でしか”できません。
そして、映画の膨大な時間を通して、主人公たちはその水の上を進み川を登っていきます。

けれど、彼は違う。
彼は川を登りもしないサーフィンを目的にしかかげ、しかもその目的ですら他の人にやらせる。

これはつまり(さんざん主人公が疑念をつぶやいていた)
 (1)目的がわけわからんということと
 (2)(その)目的の達成を他人に頼ること
そのものではないか。

つまり
上層部のカーツを殺す目的がナゾにつつまれ、無意味にすら思える[(1)]のと同様に、
おっさんの行動も謎につつまれ無意味に見えるし、加えて、その目的でさえ人にやらせる[(2)]から
なおさら似ている、ということ。

最後に

> 実は奴はホモなんじゃないのか!?

そうです――とゆーか、少なくとも
“ゲイに見える”ことが鍵に思えます。冗談ではなく。そうでなければなんであんな振るまいをするのか。

西欧では「同性愛」が“なにも生み出さない”ことの象徴とされ(迫害され)てきた伝統があります。
なぜなら、「同性愛」は生殖に結びつかないから。
そして実際あのおっさんは(繰り返し以上のことを)なにも生み出せていない。
まあ、あの俳優の履歴をよく知らないからアヤシイけど。あの俳優はああいう「キャラ」なのかも、しれません。

そしてだから、あのおっさんと同じように(1)(2)に合致するヒトたちは
あのおっさんと同じように“なにも生み出せていない”のではないか・・・

・・・とりあえずこれでサーフィンネタはおしまい。

サーフィンついでに言えば、
ランスが(他の乗員とは異なり)最後まで生き残ることも象徴的に思える。いわゆる聖書にもそういう記述
(同性愛は無意味[非生産的]だから死ね)があった・・・ような・・・気がする。
ヘラクレイトス的に言えば「死者に属する」か。


[終りなき「ジ・エンド」ブーメラン]                                     フェローK 2/18

心地よさの中、中高の頃の思い出と対峙しながら映画「地獄の黙示録」を観ました。

当時15〜17の僕は、まず東京FMのエアチェックでドアーズの曲「ジ・エンド」を知りました。
ドアーズのオリジナルではなく、ヘリの効果音を被せたサントラ版です。
「地獄の黙示録」の名は、模型雑誌で知りました。
ワルキューレの騎行にのって暴れまくったヘリ部隊とプラスチックボートで川を上るシーンを
再現していたと記憶しています。
ここにレンタルビデオブームが到来し、映画好きの友達の家でようやく本作品の映画鑑賞までたどり着き、
ドアーズとコンバットシーンとベトナム戦争とコッポラとが融合しました。
「模型」「映画」「音楽」の分野で、この映画は僕の道楽人生に消えることのない
影を落とした作品の一つです。
そしてまた、「アメリカ」に対する評価もこの頃にごり始めたと思います。

ゼロ戦や戦艦大和を愛してやまなかった小中時代に第二次世界大戦を知り、ヒロシマ・ナガサキも当然頭に
あったのてずが、戦勝国「アメリカ」へのマイナス評価はありませんでした。
(アメリカへの評価については自分と社会を確認する意味で大変興味・関心があるのですが、この場ではやめます)

この映画で僕のインパクトを受けたテーマは、「アンバランスで構成された、極めてもろく、純度の高いバランス」です。
これがジャングルでの陶酔と王国であり、欺瞞であり、カーツの言った「地獄の苦しみ(って言ってたっけ?)」につながりました。

オープニングの、ジャングルと炎のイメージにヘリのローター音、そしてドアーズの「ジ・エンド」。

オープニングで陶酔し、ガキんちょの頃を思い出しながら僕はそんなことを思いました。

続く・・・。





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